てのひらのゆめ

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 父は記憶の奥深くにもなく、母が女手一つでセルジュを育てた。貧しく辛い日々だったが、二人でいれば幸せだった。固いパンと薄いスープ、嵐で倒れてしまいそうな小さな家。身を寄せ合って眠る夜、骨張った母の手は微かな温もりを抱いていた。
 その母はようやく小さな仕事を始められるようになった息子を一人残し、病で他界した。それからというもの、セルジュは辛うじてその日暮らすだけの日銭を稼いで過ごした。一人で眠る夜はとても長く心細かった。年を経て一人前に仕事ができるようになり、その後ジゼルたちと出会うまでその生活は続いた。
 それまで生きてきた中で最も騒がしく、目紛るしい仲間たちとの暮らしは何処からともなく幸福が溢れるようだった。そしてそれは春の日差しのように柔らかであった。


 ぼんやりと、遠くで声が聞こえた。


「……どっか行っててよ。ダシアンがいたら治るものも治らないでしょ」
 聞き覚えがあるのに、うまく思考が働かない。声を出そうとすると喉を焼け付く痛みが襲う。何度か咳込むとひゅうと掠れた音が出た。
「セルジュ?」
 鳶色の髪が揺れた。ようやく声の主を思い出した。
「ジ、ゼル……」
 言って起きあがろうとするが重い身体がうまく動かない。すかさず側にいたジゼルが動かないで、とセルジュを止める。
「ただの風邪ですって。ただし重い方の、だけど。ちゃんと寝てなきゃだめだからね」
 言われて、ああ、と全身を覆う気怠さの正体を知る。頭は何かに叩かれ続けているようにずきずきと痛く、身体が焼けたように熱かった。
「大丈夫?」
 うー、と唸ってから小さく「多分」答えた。
「よかった。……何か食べる?」
「いる」
「ん、待ってて」
 極めて短いセルジュの返事に、軽やかに立ち上がるとどこかへ駆けていく。

「役得」

 足音が遠ざかるとそれまで腕を組んで壁により掛かっていた男がセルジュのベッドに近づく。わずかな水音のあとに、べしりと顔に何かをぶつけられた。怒ろうとも思ったが、冷たくひんやりとしていて気持ちよかったために、その怒りも一瞬で飛んでいく。重い腕を伸ばしその冷たさを手に分ける。
「ダシアン」
 確かめるように名を呟く。
「昨日ぶっ倒れてからジゼルの付きっきり。いいねえ色男」
 いつもと変わらぬ口調でダシアンはからかうが、生憎とそれに対抗できるほどの体力がセルジュにはない。辛うじて「うるせ」と返す。
「な、俺にも移してくれね?」
 移せるもんなら今すぐ移してやりたい、とくらくらする頭で思う。しかし言葉にはならず、唸るだけの音になる。
「おーい、セルジュー?生きてっかー?」
 足側のベッドが少しだけ沈む。顔を覆う布に僅かに隙間を作るとダシアンが腰掛けているのが見えた。
「ていうか、役得って、なに」
「今にわかるさ」
 たどたどしいセルジュにダシアンがにやりと口角を上げた。それと同時に食器を載せた盆を手にしたジゼルが部屋に入ってくる。
 ジゼルはベッドに腰掛けて笑うダシアンと、無造作に投げつけられてセルジュの顔に広げられた布を見比べて、すぐさまダシアンに非難の声を浴びせた。
「ちょっとダシアン何してるの!」
「何……ってセルジュに手厚く看病を」
 彼は笑顔のまますらすらと答える。
「手抜きにもほどがあるでしょう!セルジュ、大丈夫?」
「冷たいから」
 セルジュがぽつりと呟く。
「こりゃ重傷」
「…………大丈夫じゃないのはよく分かったわ。食べれる?」
 からかい甲斐のない奴め、という呆れ声のダシアンと視線を合わせ、溜息をひとつ落としてベッド脇の椅子に座ったジゼルが訊ねて食器を差し出す。セルジュは頷いてなんとか身体を起こすと、しばらくふらふらと揺れた。視界が定まらなかった。ぼと、と水を含んだ布が顔から落ちる。ジゼルが不安そうにセルジュを見つめていた。
「セルジュ?」
「ごめん、だるい」
 用意してくれたことに悪いと思いながらも、空腹よりも全身の気怠さが勝っていた。瞳を伏せて白く広がるシーツを見つめた。
「セルジュ、口開けて」
 はっきりとした口調に驚いてジゼルを見遣るとずい、とスプーンを突きだしている。まさかこのまま食べろと彼女は言いたいのだろうか。
「食べるの?食べないの?」
 どうやらそうらしい。
「だから言ったろう、役得だって」
 真剣な眼差しでジゼルが問う。予想が的中したダシアンは誇ったように言ってセルジュを見る。ダシアンが浮かべた笑みを見ていると、あとで必ずこれをネタにからかわれ続けるのだろうな、と今までの経験が訴えていた。
「自分で、食べるから」
 いい、と断ろうとしたセルジュの言葉をぴしゃりと遮る。
「さっき食べられなかったでしょ。冷めたの食べたいなら別にいいけど」
 と言われても、だ。恥ずかしいから嫌だ、というのは理由にならないのか。
 目線を一切逸らすことなくジゼルがセルジュを睨むように見つめる。断っても彼女は聞き入れないような気がした。
「……食べます」
 わずかに悩んだ後、思った以上に素直に答えが出て自分でも戸惑う。きっと熱でうまく考えられないからだと、おかしな思考を風邪のせいにする。
「ん、よろしい。はい」
 ジゼルが満足したように笑って突きだしたスプーンを示す。セルジュは口を少しだけ開けてジゼルが差し出した物を食べる。ゆっくりジゼルがスプーンを抜いた。どろりとした液体とも固体ともとれないそれは温かく、とても甘く感じた。
「おいしい?」
 小さく頷いてから飲み込む。身体の内側に風邪とは違う熱さがぽとりと落とされた。波紋のように静かに広がっていく。
 視界の隅でジゼルがふわりと微笑っていたような気がした。ひゅう、とダシアンが口笛を鳴らした。効果は期待できないけれど、一応ダシアンを睨んでおいた。


 半分ほど食べ終えたところで、これ以上は食べられないと感じる。
「ごちそうさま。うまかった」
「薬飲んで、あとはちゃんと寝ててね。ダシアン邪魔したらだめよ!」
「へいへい」
 渡された薬を水で流し込み、ベッドに沈む。心なしか目が覚めたときより身体が軽くなっている気がした。
 セルジュの額にジゼルが手を伸ばす。当てて、自分の額との温度を比べた。急に触れられてドキリとする。特別な意味があるわけないのに。
 彼女の手は冷たくないはずだが、体温の差のせいか、ひやりと感じて心地よい。
 ああそういえば、と思い出す。子供の頃、熱を出すと母さんがこうしてくれいた。その手もひやりとしていて不思議と気持ちが落ち着いたのだ。
「熱下がった?」
「たぶん。さっきより、すこし楽」
「よかった」
 ふう、と息をついた彼女の名前を呼ぶ。額の手に、自分の手を重ねた。
 こんな風に看病してもらうのは、本当に久しぶりだった。子供の頃、母さんが元気だったとき以来だ。込み上げてくる懐かしさにふと笑みが零れた。
「ありがとな」
 そのまま目を閉じてしばらく経つと、セルジュから小さな寝息が聞こえてきた。


「すげー天然」
 ダシアンが一言漏らす。ジゼルを見れば、セルジュの額で手を重ねたまま固まり、頬を紅く染め上げていた。
「ジゼル、ジゼル。おーい。風邪でも移ったかー」
 ぼうっとしたジゼルの前で手をパタパタと振る。その動きでジゼルが意識を引き戻すと、火照りを払うように首を左右に揺らす。鳶色の柔らかな髪がふわりと浮いて背中に落ちた。
「ちがうわよ!ばかばか!先戻っていーから!」
「はいはい。食器貸して、置いてくる」
「……ありがと」
「どういたしまして。なんならその感謝の気持ちをコイツで示してくれてもいいけど?」
 残った料理を指して訊ねる。
「やっぱ今の取り消し。さっさと出て行け」
 一瞬でもちょっと良い奴だと思ってしまった自分を呪いたくなった。セルジュが寝ているすぐ横で怒鳴るわけにもいかないので、胸の中でダシアンを罵倒しつつ、即答して冷たい眼差しを向ける。渡しかけた盆を彼の手に強く押しつけた。
「俺も風邪引くべきかなー。したら看病してくれるっしょ?」
「あら、なんとかは風邪引かないって言わなかったかしら」
 すました調子で返すと、それほどからかう気はなかったらしく、ひらりとかわしてすぐさま年上面をしてきた。本当に切り替えの早い男だ。
「冗談だよ。ジゼルもちゃんと休めよ」
 はーい、と返事だけでも言っておく。無理をするつもりはなかったけれど、セルジュの看病は続けるつもりだ。そんなジゼルの頭を軽く叩いてダシアンが部屋から出て行った。

 ダシアンがいなくなると急に部屋が静かになる。すると額に触れている手の熱を突然意識する。どくん、と心臓が大きく揺れた。
 それが伝わってしまうのではないかと、慌てて手を引き抜く。両手を胸に押し当てて包むように身体を曲げる。高鳴った鼓動が自分でも驚くほどうるさい。
「ありがとうなんて治ってから言えばいいのに…………ばか……」
 しばらくの間はセルジュの寝顔を見ることは勿論、まともに話すこともできない気がした。


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